本日は脚本家・野田高梧の命日。
(1893年11月19日-1968年9月23日)
やはりなんといっても小津安二郎監督との共同執筆作品が有名だ。

中でも『東京物語』は2012年、
「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表 ※10年毎に選出)
において、栄えある1位に選ばれた。

Directors’ 10 Greatest Films of All Time | Sight & Sound | BFI

野田氏の著書「シナリオ構造論」には、残念ながら執筆時のエピソードや、小津安二郎に関する記述はほとんど無い。

全編、純粋なシナリオ論に終始している。
その主張するところは「映画は芸術である」。この一点につきる。

今どきのシナリオ入門書にありがちな、
「こう書けばハリウッドに高く買ってもらえますよ」とか、
「このテンプレートを埋めていけばヒット作の完成です」
とかいったようなものとは一線を画した内容となっている。

そのような高い意識で創作に臨む脚本家は、何年経っても生みの苦しみにつきまとわれるし、またそうであるべきだと、氏は言う。

それと関連して面白かったのは、ビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』のエンディングの是非について、志賀直哉の批判文を引用しているところ。
「私ならこういうエンディングにする」と志賀直哉がワイルダーにダメ出しをしているのだ。
この取り合わせが面白い。

野田氏がこの件を取り上げたのは、安易なハッピーエンドでお茶を濁してはいけないという戒めから。
ハッピーエンドは必然性があってこそのもの。
今どきの“めでたしめでたし”映画を見慣れている我々は、こういう感性が相当に鈍っているはずだ。
思考停止に陥らないよう気をつけたい。

それから「脚本は完璧でなくてはいけない」とも。
監督が何とかしてくれるだろうとか、役者の神演技に期待しよう、とかゆめゆめ思ってはいけないと。
一流の監督と役者に囲まれていた野田氏がそう仰るのだから、この言葉もしっかりと心に留め置きたい。

(以下、引用 ※1990年改版第11刷発行のものを底本にしています)

イプセンは現在の理解に必要なだけしか過去を話さない。決してそれ以上を話さない。併し、イプセンの特色は、ただに「何を話すか」ということだけにあるのではない。「それをいつ話すか」という点に、優れた特色があるのである。即ちここでほんの少し話すかと思うと、又他の所でほんの少し話すといったふうである。どうかするとある事がただ暗示されるだけのことがある。それは、一度に十分な知識を与えてしまうと、見物が安心してしまって、却って舞台の効果が薄くなるからである。
ある種の作者は私達が知りたいと思う過去の事実を不手際にそして明からさまにさらけ出してしまう。ところが、イプセンはそうしない。巧みに私達の細かい研究を要求するように書く。

卑近な例をあげれば、私の手元に送られてくるシナリオに対して、私がその不自然さを指摘すると、その作者は殆んど十人のうちの九人までが、これは自分又は自分の知人の上に起った実際の出来事だから不自然な筈はないと答えて不満そうな顔をする。が、反語的ないい方をすれば、それが実際に起った出来事であるが故に一そう不自然な感じを持つのだとも云えよう。なぜならば、作者はその出来ごとの表面をいかに滑らかに繋ぎ合わせるかということにのみ専念して、その底を流れている真実を掴みとることを見遁がしているのみならず、その上更に、その出来事に絡まる必要以上の事実までをこまごまと書きならべているからにほかならない。
作家が或る一つの出来事によって感動させられた結果、それを描いて他の者を感動させようがためには、彼はまずその出来事が彼を感動せしめた原因がどこにあるかを探求して、それの現象としての特殊性のなかに真実としての普遍性を発見し、それを更に彼の空想のなかに溶かしこんで、そこに初めて一つの作品としての構想をまとめあげなければならない。

世にいう才気にあふれた器用な作家たちが、見たこと、聞いたこと、思い付いたことを忽ち一つの作品にまとめあげて、一応はその新奇な構想や、光彩にあふれた事件や、流行に合った人物や、近代風な描き方などによって、所謂第一線の作家として認められはするものの、その多くがついに第一流の作家となり得ずして終るのは、要するに彼等が彼等自身の才華のために禍いされて、素材の整理を疎かにし、作品としての真諦たる「意義ある真実」を語ることを怠っているためにほかならない。真の大作品や真の傑作は決して単なる才気や思い付きなどから生れるものではない。バルザックは興が乗ってくるとまず筆をおいて机の前をはなれ、冷静になるのを待って.再び筆をとったというが、この大作家にしてこの慎重さを持っていたというこの逸話は、そのままとって座右の銘とすべきものであろう。ゲーテの言葉に次のような一節がある。
───真の芸術家は芸術上の真理を掴もうとして努力する。向うみずな衝動に従う無軌道な芸術家は自然の事実を掴もうとして努力する。前者によって芸術は最高の頂きにあげられ、後者によって芸術は最低の段階に引きおろされる───

(黒澤明)

───説明の多い脚本は困る。映画は絶えず流れているのだから、説明するには凡そ不適当な形式なのだ。逆説的にいうと映画で説明しなければわからないものは、説明してもわからない。説明に頼っている脚本は全く演出家殺しである。無味乾燥な説明に東奔西走し、しかもその実績は殆んど上らないのだから……。つまり、映画は感じさせることを主要な武器としている点で音楽に近い芸術形式であるが、音楽で何か説明することの愚を思えば、映画で何か説明する愚もよくわかる筈だと思う。近頃サイレント時代のシナリオをいろいろ読み返してみて、その明快なのに讃嘆したが、これは音や言葉がない不自由の故に却って感じさせることに徹した結果だと思う。思えば映画はトーキーになって言葉や音を自由に取入れて大へん豊かになったようだが、実はプラスしたものは決して多くない。むしろ、なくしたものの方が多いくらいである。その中でも最も大きなものは、今云った感じさせる能力の減退ということだと思うのだが、それに関連して、近頃のシナリオの画の不足という問題がある。元来、トーキーの力は見せる力プラス聞かせるカであるべき筈なのだが、実際上は大抵見せる努力の幾割かが、聞かせる力に割かれている。その結果、画の貧困に陥っている。しかし、聞かせるよりも見せる力の方が幾倍か強いのだから、こういう傾向はよほど考えなければならぬ問題だと思う。画の貧困と僕は云ったが、僕がここでいう画とは、決して絵画的な画を意味しているのではない。映画の視覚的な表現力を云っているのだ。その場面構成や場面と場面との接続から生ずる表現力のことを云っているのだ。そういう表現力がヴィヴィッドに感じられるようなシナリオこそ、われわれの最も望むところである。一読して画が出て来ないようなシナリオは、どこかに映画になるためには弱いところがあるのだと思う。

(三村伸太郎)

───最初のシーンを書くときに、すでにラストのシーンが自分の頭の中にこびりついているということは甚だ不愉快である。天地創造の悦びを書くことが、宇宙壊滅のための前提であるようなことは、おまんまを食うための仕事にしても、あまりに味気なく、空虚に感じられ出して、天地創造も、宇宙壊滅もなく───あるところに一人の人間がありました、と始めも終りもなく、ぶらぶらと人生の道草を食うところから始めてみたまでのことである。
これはわたくし自身のためにやっていることで───最初のシーンの人物が、次のカットでどんなことをするか、わたくしにも分らない。ふと擦れ違った人間の後をのこのことついて行くこともあろうし、石を蹴ってみて、その方向へ歩き出すこともあろうし、またふらふらと他人様の家に上りこんで、無遠慮に飯を食うこともあろうし、惚れた女が出来て逃げだすこともあろうし等々、考えてみれば、人生、また、シナリオも愉し───

ポルテイの36局面

01 哀願(嘆願)
02 救助(救済)
03 復讐(復讐に追われる罪禍)
04 近親間の復讐(これの最も有名なものとしては『ハムレット』がある)
05 逃走(追跡)
06 苦難(災難)
07 残酷な又は不幸な渦に巻き込まれる場合
08 反抗(謀反)
09 戦い(不敵な戦い、大胆な企図)
10 誘拐
11 不審な人物または問題(謎)
12 目的への努力(獲得)
13 近親間の憎悪(たとえば『にんじん』『父帰る』のようなものである)
14 近親間の争い(『カラマゾフの兄弟』などがその好例であろう)
15 姦通から生ずる残虐(殺人的な姦通)
16 精神錯乱
17 運命的な手ぬかり(浅慮)
18 知らずに犯す愛欲の罪(たとえば黙阿弥などが好んで題材とした所謂畜生道で、ソフォクレスの『エヂポス王』などがその代表的なものであろう)
19 知らずに犯す近親者の殺傷
20 理想のための自己犠牲
21 近親者のための自己犠牲
22 情熱のための犠牲
23 愛する者を犠牲にする場合
24 三角関係(勇者と劣者との対立)
25 姦通
26 不倫な恋愛関係(これは例えば母と娘が同じ男を愛する場合などを云うのである)
27 愛する者の不名誉の発見
28 愛人との間に横たわる障害
29 敵を愛する場合
30 大望(野心)
31 神に叛く争い
32 誤った嫉妬
33 誤った判断
34 悔恨
35 失われた者の探索と発見
36 愛する者の喪失


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新・雲呼荘 野田高梧記念 蓼科シナリオ研究所