八田一朗氏の器が大きすぎて、一度のエントリでは収まりきれない。
また現在、入手がほぼ不可能な稀覯本ということも鑑みて、二日連続で「私の歩んできた道」を取り上げさせていただく。

前回のエントリ:
「私の歩んできた道」八田一朗・著| 剃られて、踏まれて、金メダル。:23時の雑記帳

今回は、戦争に関する記述にスポットを当ててみた。

二・二六事件の首謀者と同じ釜の飯を食った八田氏の証言は、歴史的価値が非常に高いと思われる。
読んでいて、当時のこわ〜い空気感に身震いしてしまった。

(以下、引用です)

わたしが入隊したのはちょうど二・二六事件(1936年)の直前だった。しかも二・二六事件に、反乱軍の中心となった第一連隊だった。だから、事件に関係したいろいろな連中が部隊にいた。わたしの除隊の翌年にこの連中が二・二六事件を起したのである。部隊にいて、わたしは、連中がいつ大事をやるかわからない、という気配をヒシヒシと感じさせられた。若い将校の間には、そういう空気が満ち満ちていた。このことは、上の連中も感じていたはずである。なにか起るということはわかっていたと思う。それでいて、ああいう事件を起させたのだから、日本の軍隊も、でたらめだと、これは後になってから、海外で事件勃発の報をきいて思ったものである。

当時わたしと同じ連隊に二・二六事件に、その歩兵第一連隊と第三連隊をひきいて、首相官邸を襲い、岡田首相を殺した(実際は岡田敬介首相の義弟松尾伝蔵陸軍大佐が首相の身代りに殺されたので、岡田首相は奇跡的に助かった)栗原安秀という中尉がいた。わたしよりも年の若い中尉だった。この中尉が、激越した口調で演説をやったものである。
「おれについてこい。命をくれ。おれが命令したときは、だれでも殺せ」
といったことを部隊内で、堂堂と演説していた。
当時、わたしたち兵隊は、軍人勅諭というものを入隊の第一番に暗誦させられたものである。夜、就寝前の学課でまずそれを教えられた。暗記して宙でいえるまでは寝させてくれなかった。当時の軍隊における最高の戒律だった。
「一つ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし……」
相当長いもので、もう忘れてしまったが、この軍人勅諭によれば───軍人は政治にかかわるべからず───とか、なんとかあった。
ところが、栗原らのいうことは全部政治である。単に政治問題を論じているだけでなく、政治行動を起せと、アジっているのだった。これは、非常に矛盾している。わたしたちは、不審に思った。
そこで、「政治に関係するのは軍規に反しないか」
ときいてやった。
すると、彼らはいわく、
「軍規には、小乗的軍規と大乗的軍規とがある。軍人勅諭が兵に求めているのは、小乗的軍規だ。軍隊で日ごろいわれている軍規は小乗的軍規だ。おれたちのいう軍規は、日本の国を救うためのものだ。これは大乗的軍規だ。このほうがたいせつなんだ。平常やかましくいっている軍規は、破ってもかまわん。大乗的軍規の前には、小乗的軍規は問題にならないのだ」
と。このような議論をしょっちゅう、きかされたものだった。
わたしたちは、年をとっていたから、困ったものだと思っていた。

そのロンドン滞在中のことだった。1936年2月26日の二・二六事件の知らせを受けた。読むと、青年将校が17,8名、その中心人物になっている。さきの栗原中尉ら知っている者がいる。彼らは、かねがね、激越な演説をして、わたしたち兵隊をアジるとともに、大事決行のあとは腹切って死ぬといっていた。ところが、遠くロンドンから様子を見ていると、野中(四郎)大尉が一人、ピストルで自決したほかは、だれも腹を切らない。法廷闘争をやるとかなんとかいって、ぐずぐずしていて、軍事判決で処刑された。これはちょっとまずかったと思う。法廷闘争に持ち込めないのなら、かねての主張どおり、腹を切って死ねばよかったと思う。

前の話のつづきになるが、わたしは、軍隊生活では、あまり得るところがなかった。むしろその逆だった。その後北支に転属になった部隊の部隊長というのがなっていなかった。この隊長だけでも、日本は負けるといってよいようなおやじだった。自動車隊だったから、隊長専用の風呂や脚付お膳まで運んで、作戦行動に出かける。
(中略)
平時ならまだしも、戦争しているのだから、そんなぜいたくはまったくばかげたことだった。それなのに、しょっちゅうこんなわがままをいっているのだ。わたしは、主計中尉だから、こんな部隊長の女房役をしなければならなかった。だから、憤慨のしつづけだった。こんな男が部隊の指揮官であって、兵が気持よくいうことをきくはずがない。
「現地食でやれ」と、部隊長がわたしたちに命令した。孫子の兵法にも、<糧は敵による>とある。現地食なら、その輸送をしないですむというわけである。そして、あまりこの部隊長がうるさいので、野犬を殺して食わせてやったら、ひどく怒った。そこでわたしはいってやった。
「このつぎはねずみです」と。

世間では、しかも、スポーツ界でも、間違った意味での根性が横行している。
一つは、<竹やり根性>である。戦争中にやかましくいわれたやつだ。日本人全部の一億総決起とかいって、老人に竹やりを握らせ、妊産婦にまでバケツ・リレーをさせたりした、あれである。正しい技術の錬磨とその実力の苦しい鍛錬を忘れて、精神力だけで、万一の優勝を期待していたようなところが、日本のスポーツ界にはなかっただろうか。ただ<がんばれ>の掛け声だけでは勝てない。芋の葉っぱを食ってもやりとげる、といった根性は確かに、古来、日本人は持っていた。それは非常にりっぱなこととは思う。しかし、それは<竹やり根性>にすぎない。それでは、外国の力には勝てない。いくら竹やりをふり回しても、たこ壺を堀り回っても、大東亜戦争には、勝てなかったのだ。

関連エントリ :
「私の歩んできた道」八田一朗・著| 剃られて、踏まれて、金メダル。 : 23時の雑記帳

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