太平洋戦争中に「日本はこの戦争に負ける」と公言してはばからない科学者がいた。
という噂を小耳に挟んで、矢も楯もたまらなくなり、この本を手に入れた。

なるほど、噂は本当だった。
当時においても、見える人にはちゃんと真実が見えていた。

富塚は憲兵に睨まれながらも、戦時中は講演で全国を飛び回っていた。
なぜ彼の話は引く手あまただったのか。
混迷のさなか、明日がどうなるかも分からない生活の中で、科学に基づいた彼の提言は人々の心に多少なりとも希望を与えたからに違いない。

富塚は一度、憲兵に拘束されたことがある。
その時の取り調べでの、ちょっと面白いエピソードが載っているので紹介したい。

「言論報告」1944年10月号誌上で、軍神加藤「隼」戦闘隊長を国辱と言っているのはどういうことか、と問われた富塚の言い分がふるっている。

自分は『加藤隼戦闘隊』という映画そのものを国辱と言ったのだ。
あの映画の中には、霧のために5機中3機が墜落するシーンが出てくる。
こんな航空技術は恥ずかしくて世界に発表できない。
戦略上はこれを秘し隠しておくのが有利。
それをさも英雄のごとくに公表する。
だからこの映画を国辱というのです。

…なんだかうまく言いくるめられてしまった。
軍人に向かい、軍事力の低さを嘆いて見せつつ、(しぶしぶだろうが)納得もさせている。
この柔軟性があったからこそ、あの言論統制の時代を生き抜けられたのだろう。
それにしても人を食ったというか、なかなかの一休さんぶりである。

これが自説こそ正論とばかりにゴリゴリと正面から押し続けていたら、いかに地位も名声もある富塚といえどもどうなっていたから分からない。

実際に憲兵から暴行を受けたという話は沢山ある。
女性であろうと容赦なしだった。
殺された人もいたことは記しておきたい。

そのような時代の中、富塚が強くいられた理由は何だったのか。

科学の力、だけでそうなれるのなら日本の科学者たち全員が富塚のような行動を取っていたはずだ。
しかしそうではなかった。
日記にもあるが、東京帝国大学内ですら終戦のどさくさの頃は器具や書籍の盗難、戦後の処罰を恐れての書類などの焼却が当然のごとくに行なわれた。

富塚がそのような人々と一線を画し得た理由は、「国家の禄を食む者としての当然の責務、奉仕」という思いがあったからだという。
身の危険を冒してまで講演を精力的にこなし続けられたパワーの源はこれだったのか、と納得がいった。

(以下、引用です)
昭和一六年一二月八日(月)

朝、あたふたと家を出て、千駄ヶ谷の会場に行き昼まで講演、いつもの持論「日本は資源も乏しく科学技術もレベルが低いので、いくら頑張っても近代戦争に勝味はない」ことを強調。誰も反論ない。なお、けさ米英相手に東条(英機)内閣が宣戦したということを会の世話人も全然いってくれず、知らぬが仏でうまい話ができたつもりで、東京会館の翼賛会に行く。とうに開会しているはずと思ったら人影がまるでない。会場はからっぽ。おかしいと思ってあたりにいた人に聞いたら、今日の会は中止という。「へーえどうして?」と尋ねたら「米英相手にけさ開戦したんですよ、けさのラジオで発表ありました。あなた聞きませんでしたか?」という。全くびっくり唖然とした。さりとは「けさの講演まずかったなあ」と思ったがあとの祭り。

昭和二〇年二月二七日(火)

三年会があるので、昼ごろ、外務大臣官邸へ。私がいちばん早く、間もなく、田中耕太郎氏が来る。ついで、志賀直哉、谷川徹三、加瀬俊一、武者小路実篤、山本有三、和辻哲郎、今日はほぼ全員出席である。はじめ雑談。
志賀「自分などの知っている従軍画家でルソンへ行ったのがあるが、特攻隊員に会いに行くのがいちばんつらいといっていた。何しろこれは生きながらの仏様になってしまっている。整備員など、もう何も手につかず、涙をぼろぼろ流してガラスなどをふいているのだと。それに比べると斬込隊の方は元気がある。これはたったの一パーセントにしろ、助かる可能性があるから」
(中略)
武者小路氏の話、彼の娘婿が、放送の仕事で九州に行き基地で海軍の連中と知り合いになった。その若手の連中、酔うと「高位高官ぶっころせ」と、大声で歌う。それを中佐くらいの上官は黙って見ているそうな。

昭和二〇年五月一三日(日)

沖縄あたりでは、学生が突撃して死んだりしている。新聞などでそれを美談扱いしているが、昨日あたりから、そのことを考えてみるが腑におちない。そもそも、軍の職責は、民のために楯となることではないか? 今のやり方では、軍というものは完全に国民の心から離れてしまう。

昭和二〇年八月一五日(水)

夕方、麗子が自由学園から戻ってきた。
「おい、どうした。学校で、放送聞いたんだろう。それで、皆泣いた?」と尋ねてみる。
「ええ、泣いたわ」
「どうだい。君が代をやったろうが。これまでが、おとうさんのいうとおりだったろうが……」
「ええ、そうね」
「それで、麗子も泣いた?」
「私は泣かないわよ。泣かない人が私のほかにもあったわよ。……だがね、おとうさん、これから当分、外に出ちゃだめよ。おとうさんは人の見さかいなく、思ったことをぺらぺらいってしまうからあぶなくて、仕方がない。皆こうふんしているんですからね。それが少しおさまるまで、じっとしててよ」
「よしよし。ところで、文子、今日は赤飯をたこうじゃないか。もっとも、敗戦を祝ったなんていうと人聞きがわるいから、名目は月おくれのお盆ということにするさ。本心は生き残ったことのお祝いということだがね」
(中略)
われわれにとっては、こんなのびやかな一日である。しかし、この奈落にまで日本を引きずって来た連中にとっては右往左往の大変な日であったろう。阿南(惟幾)陸将は、かわいそうに、昨夜かに、すでに自決したそうだ。東条はどうした? 何も発表はないが、のうのうと生き残ることもかなうまいという気がする。その他誰々……
夕食の膳に顔をそろえたとき、誰いうとなく、「おめでとう」をいう。
「まあ、新しい時代に生き残れたんだから、しっかりやろうぜ」

昭和二〇年八月二五日(土)

今日の毎日新聞に石原莞爾の談話が出ていた。曰く、「日本は敗れるだけの理由があって敗れたのである。道義の頽廃はその根本である。今後の日本は工農一全で行かねばならぬ」と。
大体において妥当である。
また、軍が思想取締りの低級なのをやったこともいけないとしている。それにくらべ、戦後の今は、非常に寛大となった気がする。

昭和二〇年九月一三日(木)

町には、アメリカ兵の姿がたくさん見える。日本兵のようなしゃっちょこばった敬礼ばかりしている姿態はまるでなく、のびのびとして、ぶらぶら散歩している。彼らは、日本を占領し、われわれ国民を監督している立場にあるわけだが、われわれにそのことを一向に感ぜしめないのは、さすがと思う。

下のリンクは戦前戦後を含めた富塚清の半生について書かれた論文です。
富塚清の人となりがよりいっそう理解できます。
たいへん面白く読ませていただきました。
四国大学の小野健司教授、素晴らしい論文を公開してくださり、まことにありがとうございます。

工学者 富塚清(1893〜1988)の伝記(1)――自由に創造的に生きるために――小野健司

工学者 富塚清(1893〜1988)の伝記(2)――自由に創造的に生きるために――小野健司

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ある科学者の戦中日記 (1976年) (中公新書)
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