ときは大坂夏の陣、真田幸村が次々に奇策を考えつく。
それを淀君が片っぱしから却下していく。
…物語がその箇所に来るたび、渡部昇一少年はくやし涙を浮かべながら、ゲンコツで講談本を殴りつけたという。
そこまで熱くなれる昇一少年をうらやましく思う。

「知的生活〜」というタイトルから、今風にいうとスターバックスでカフェラテ片手に、マックのノートを軽快に叩くノマド系クリエイターへのソフィア・ライフの提言…みたいな本だと思っていた。
ところが中を開けてビックリ。
めちゃめちゃ泥臭かった。もちろんいい意味で。

大学時代の昇一青年は超絶に貧乏で、いつも腹を空かせており、大根をかじって飢えをしのぐほどだった。
それでも本だけは買い続けたという。
そんな生活を、ご本人はとても豊かだったと回想する。

そして読書の目的というのが、
若いうちに苦労しておけば、後々ラクになるから
とか
英語をマスターしておけば、社会に出たときに有利だから
とかではなく、
ただひたすら知識の吸収、自己の錬磨のためなのだ。

もちろんそこには、万葉集や漢詩など、一般には敬遠したくなるような代物を「面白そうだ」と感じられるセンスがあったからこそできたのだと思う。
そして長い目で見れば、読書によって得たものをさまざまな形で社会に還元していくことで、その人の人生も豊かになっていくのだろう。

数年おきに読み返す愛読書を持ってこそ知的生活者と言える、と渡部氏は言う。
私にとって本書こそがその一冊になりそうだ。

(以下、引用です)
たとえば「ゲゲゲの鬼太郎」の産みの親の水木しげる氏は、二十五年かけて一億枚ぐらいの写真やスクラップを集めたという。それが変死体とか、残虐な殺人現場とか、留置場とか、刑務所とか、うす気味悪いところをかくときの資料なのである。
(中略)
普通の人が「ゲゲゲの鬼太郎」を見ても、その背後にある水木氏の資料についての努力までは、考えがおよばない。しかしこれは水鳥が池の水面をただ泳いでいると思うのと同じまちがいなのである。水鳥は絶え間なく水面の下で足を動かしているから進むのだ。

ある考えをまとめようとしつつ、参考書に当ったり、書きはじめては破ったり、アウトラインを書いてみたりして、ようやく頭のエンジンが暖まって調子が出てきたな、と感ずるまでには、人にもよるだろうが、一時間から二時間かかるとみてよい。それからもう二時間か三時間、中断されることなくその仕事を続けるならば、頭はますます冴えてきて、その仕事に取りかかるときには予想もできないことを理解し、思いがけぬ霊感も次から次へと湧いてくるであろう。そこまでいたるには一、二時間のウォーミング・アップみたいなものが必要なので、それが中断されることは、ようやくエンジンが暖まりかけたときに水をかけるようなものであり、溶鉱炉の火をしょっちゅう消すようなものである。

私も大学生のときは極度に貧しかった。英文科に何人いたが知らないが、私より貧しかった人間はいなかったと断言してもよい。家に頼めば少しは無理して送ってくれたかも知れないが、すでに六十を越え、これという収入もない老父母にどうして余分の送金など頼めたであろうか。またアルバイトをすればよいと言うが、そうでなくてさえも本を読み、語学をマスターする時間が乏しいのに、どうしてアルバイトのための時間がさけようか。
(中略)
靴はバザーで一足だけ中古のものを買い、あとは軍靴か運動靴にした。普通の靴は教授の家を訪ねるときだけである。靴下もいつもは
軍足である。教授の家の近くに行ったときに、軍足をぬいで紙袋に入れてカバンにしまい、普通の靴下とはきかえる。おいとましたら、その逆をやるわけだ。このようにして中古の靴一足が大学四年間もったし、靴下も大学に入学したときのをはいて卒業生総代の式辞を読んだ。

小学校の二年生のころに、近所の子供たちのあいだで大いに将棋が流行したことがある。だがしばらくすると、はっきり二つのグループにわかれてきた。つまり、ぐんぐん強くなった者とそうでない者とである。強い弱いといっても、たかが小学生の将棋だからどうということはないのだが、その間の区別は明白であった。
強くなった方の子供たちは二、三人で、あとはみんな強くならなかった。強くなった子供たちの特徴はズルをしないというまことに単純なことなのである。子供のことだから、相手がよそ見をしたり、便所に立ったりするあいだに、端の方から槍を取ったり、歩をちょろまかしたり、なかなか油断ができない。角道を少しずらすなどというのもよくやることであった。子供たちの将棋でワイワイさわぐのは、相手のズルを発見したり、それを否定したりするからであった。この連中はけっして強くならなかった。
これに反して、将棋を指しはじめると静かになる子供たちがいた。そういう子供たちは、数は少なかったが、自転車屋のタケシ君とか私がそうであった。この連中はけっしてごまかさない。ズルをやらない。ズルをやって勝ったのではおもしろくない、というセンスがあった。そして間もなくわれわれは近所の大人たちの縁台将棋にも加わって、けっこう勝てるようになった。一方、ズルの連中はあいかわらずだ。将棋を覚えたのは同じころだったのに、間もなく私たちはズルの連中とは指さなくなった。


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