昭和の時代に大活躍した52人の文章の達人が、作文の極意や、普段から心がけていることを赤裸々に語ってくれている。
実に読み応えのある一冊。

まずはこのそうそうたる顔ぶれをご覧いただきたい。(目次順)

丸谷才一
高峰秀子
清水幾太郎
円地文子
新藤兼人
和田誠
坪井忠二
團伊玖磨
田村隆一
飯田善国
武田百合子
北杜夫
佐藤忠男
吉田秀和
開高健
中村武志
日高敏隆
小川国夫
東海林さだお
倉橋由美子
山口瞳
堀淳一
宇野千代
尾崎一雄
大岡信
森崎和江
金達寿
佐多稲子
山下洋輔
吉行淳之介
江國滋
ドナルド・キーン
梅原猛
野見山暁治
中上健次
澁澤龍彦
つかこうへい
田中美知太郎
芥川比呂志
石原慎太郎
殿山泰司
河上徹太郎
沢木耕太郎
戸板康二
大岡昇平
大野晋
中山千夏
三善晃
倉本聰
植草甚一
井上靖
池田満寿夫

意外だったのは、石原慎太郎が、ひら仮名タイプライターの発案者だったこと。
この本を読んで初めて知った。

ところがわざわざ特注で作らせたタイプライター、けっきょく使わずじまいだったそうだ。
理由は、タイピングで打つ文章と、手で書く文章の差に、喪失の予感を感じとったから。

使っていれば、おそらくは楽ができたであろう文明の利器を、
あえて使わなかったところに、氏は自らの文学に対する誠実さを見ている。
この話にはとてもうなずけた。

本書は週刊朝日の連載をまとめたもので、発行は1984年2月となっている。
であれば、ここに載っている文章はほとんど肉筆で書かれたもの、ということになる。
どの方の文章にも、今ではあまりお目にかかれない"重み"や"密度"のようなものを感じるのだが…
気のせい、あるいはノスタルジーだろうか。

(以下、引用)

高峰秀子 「因果応報」

私にとって、読書は唯一の楽しみだったが、同じ文章を読むといっても、映画の脚本を読むということになると、楽しみどころか苦しみに近い。まず心がまえが大きく違ってくる。第一「出演すれば出演料が貰えるけれど、出演しなければ一銭にもならない」という生活がかかっている。出演するのはたやすいが、さて断るとなると、それ相応な意見や断る理由をみつけなければならない。断れば憎まれるからその覚悟と勇気もいる、というわけで脚本の読みかたもいっそう慎重に、真剣になるというわけである。どのような作品を選んで出演するかは、自分の履歴書を一字一字埋めるのと同じくらいの重要さがある、と私は思っている。

新藤兼人 「映像は頭の壁に書く」

まずうかぶのは映像である。文字はそれを記録するだけである。正確に記録するためには文字を選ばなければならないが。
ある場面のある状況が、フイルムで記録するように明確にとらえられなければ、私は一行も書くことはできない。なが年シナリオを書いてきた習性であろうか。私がものをみる眼はすべてフイルムをとおしてである。
シナリオというものは、映像を書くのである。映像を書くということは雲をつかむような作業だ。イメージというのは、中心がたしかで周囲があいまいなものであって、とらえどころがない。
必要なものだけを残し、不要なものをどんどん棄てる。棄てて棄てて、余分なものを一切なくしたとき、残るもの、それが映像というものである。

團伊玖磨 「音符と文字」

或る日、文庫版で漱石の「道草」を読んでいた僕に、父が、文学書は旅行の時以外は文庫本で無しに単行本で読みなさい、折角蒐めてあるのだからと言って、大型の大正四年の初版本の「道草」を書庫から持って来て呉れたのを切掛けに、僕は父の書庫に入ることを許されて、勉強の隙き間を縫っては片端から明治以来の文学に親しむようになった。父は、何れ戦火のためにこれらの本は燃えてしまうのだから、それ迄に出来るだけ多くを読みなさい、頭の中迄はB29も焼けないからねと言い、読むからには硯友社から始めて、歴史的に系統立てて読むように、とも言った。父母が蔵書家だった事、そして良い読書指導をして呉れた事を僕は幸福に思い、心から感謝している。
硯友社 - Wikipedia

吉田秀和 「相撲と批評」

むずかしいものである。何年か相撲で批評の手習いをしているうち、一番一番の勝負のほかに、なお残る何かがあるはずだと気がついた。私たちが相撲をみるのも、一番一番を見ると同時に、それを越えて何年、何十年たっても忘れないある感動の手応えを求めていればこそなのだ。とすれば書き手もそれを言い当てなければならない。ちょうどシューマンがシューベルトのハ長調交響曲に因んで「天国的長さ」と書いて以来、世界中の人がそれを思わずにこの曲をきくことができなくなったように。また若乃花といえば、ある時危うい勝負を切りぬけた後で「俵に足がかかってからがわしの相撲」と思わず述懐したばかりに、この言葉と一体になって相撲史の中を生きてゆく定めとなったように。

石原慎太郎 「クラフトの重み」

私はもともと小説を創るのは好きだが字を書くのが嫌いな人間で、独自のタイプライターを開発したことが或る。当時まだ数も少なかったコンピューターを使って、仮名文字の使用頻度を分析計算し、それに合わせたひら仮名シフトを、わざわざひら仮名の活字を注文して造らせ、ポータブル英文タイプの大文字小文字上下二段の活字台に当てはめた。現在ある有名なメーカーから売り出され、大層な売れゆきといわれるひら仮名タイプの文字盤は実は私の創作である。
しかし、結局、私は自分で創りながら、そのタイプを今まで依然としてマスター出来ずにいる。それは、その練習に費やす時間が惜しいのと、馴れれば馴れたで、一時期かも知れぬが、多分私の文体が饒舌に堕するのではないかと思ったせいでもある。よく、ヨットのスターンデッキやコックピット、プールサイド、或いは飛行機の中でポータブルのタイプを叩いている外国人を見かけ、大層羨ましいと思うことがあるが、この未知の手段には、文学の文章にとっての何か罠があるような気がし、自分でその罠に飛びこむ気がまだしない。自讃ではないが、この消極性は、自分の文章への私なりの誠意といえるかも知れない。
しかし、いくら文章が饒舌に流れても、それを自分で納得いく形に是正する方法はいくらでもあるはずだ。ヘミングウエイもそうしたそうだが、自分の文章を自分で声を挙げて読んで見ることは、少なくとも私にとっては、他の何よりも効果のある方法に思われる。

br_banner_kokuban


目次

丸谷才一 文体を夢みる

高峰秀子 因果応報

清水幾太郎 短文の勧め

円地文子 外国の詩の影響

新藤兼人 映像は頭の壁に書く

和田誠 人真似ごっこ

坪井忠二 親切

團伊玖磨 音符と文学

田村隆一 人と言葉のエロティックな関係を

飯田善国 荒野に立つまで

武田百合子 絵葉書のように

北杜夫 私の文章作法

佐藤忠男 なにを書くか

吉田秀和 相撲と批評

開高健 野原を断崖のように歩くこと

中村武志 ただ一度の訓示

日高敏隆 翻訳で学ぶ

小川国夫 遅い悟り

東海林さだお 噛みでがあるコロッケ

倉橋由美子 骨だけの文章

山口瞳 天の時、地の利

堀淳一 おくてのたのしみ

宇野千代 阿吽の呼吸

尾崎一雄 乱読雑読

大岡信 綴方から大学ノートまで

森崎和江 ことばを生む

金達寿 手さぐりで

佐多稲子 読んだものがいつか肥料に

山下洋輔 音と言葉は別物?

吉行淳之介 「文章」の奥にあるもの

江國滋 名文に毒あり

ドナルド・キーン 文章の年季奉公

梅原猛 死の覚悟の中で

野見山暁治 心ぼそい話

中上健次 「必要」に応じて

澁澤龍彦 嘘の真実

つかこうへい 臨場感

田中美知太郎 回想的文章談義

芥川比呂志 門の外

石原慎太郎 クラフトの重み

殿山泰司 文章修業なんか───

河上徹太郎 私の「文は人なり」

沢木耕太郎 積み木のように

戸板康二 書物の恩

大岡昇平 翻訳しながら…

大野晋 何も分らずに

中山千夏 大変は大変

三善晃 耳と手から

倉本聰 いつも裏口で歌った

植草甚一 ジャズの原稿で始まった

井上靖 『百物語』その他

池田満寿夫 三つの現実

_____________

丸谷才一
高峰秀子
清水幾太郎
円地文子
新藤兼人
和田誠
坪井忠二
團伊玖磨
田村隆一
飯田善国
武田百合子
北杜夫
佐藤忠男
吉田秀和
開高健
中村武志
日高敏隆
小川国夫
東海林さだお
倉橋由美子
山口瞳
堀淳一
宇野千代
尾崎一雄
大岡信
森崎和江
金達寿
佐多稲子
山下洋輔
吉行淳之介
江國滋
ドナルド・キーン
梅原猛
野見山暁治
中上健次
澁澤龍彦
つかこうへい
田中美知太郎
芥川比呂志
石原慎太郎
殿山泰司
河上徹太郎
沢木耕太郎
戸板康二
大岡昇平
大野晋
中山千夏
三善晃
倉本聰
植草甚一
井上靖
池田満寿夫
___________