『抱きしめたい』(2014)、『どろろ』(2007)、『この胸いっぱいの愛を』(2005)などでおなじみ、塩田明彦監督の著書。

俳優を目指す学生さんへの講義をまとめたもので、役者志望の方はもちろん、一般の映画ファンにとっても実にためになることが満載だ。

くわしい解説が為されている映画は以下の通り。

『サイコ』(ヒッチコック)
『流れる』、(成瀬巳喜男)
『散り行く花』(W・D・グリフィス)
『秋刀魚の味』(小津安二郎)
『許されざる者』(クリント・イーストウッド)
『スリ』(ロベール・ブレッソン)
『曽根崎心中』(増村保造)
『座頭市物語』(三隅研次)
『大菩薩峠』(内田吐夢)
『復讐は俺に任せろ』(フリッツ・ラング)

…ほかにもまだまだある。
全部、拾いきれずスミマセン。(汗)

『流れる』や『曽根崎心中』などは、以前観たことがあるが、リタイヤしてしまった。
本書により、見どころをレクチャーしてもらった今、再度挑戦してみたい。
『流れる』は高峰秀子と加山雄三の“動線"に注目すればいいのね、フムフム。

それから時代劇も、主人公が悪者を何十人もバッサバッサと斬りまくる、そのバカらしさに敬遠していたのだけれど、ちゃんとしているのもあるみたい(当たり前か)。

なので、まずは『大菩薩峠』あたりから観てみようかな。

あとは、塩田明彦監督にきっちりトラウマを刻みつけたという、

『この子の七つのお祝いに』(増村保造)
『犬神の悪霊』(伊藤俊也)
『マタンゴ』(本多猪四郎)

…に、興味津々なのだが…、勇気が出ない。

『マタンゴ』だけは子供の頃、テレビで観た。
1メートルくらい跳ね上がった。(泣)



(以下、引用です)

小津が作り出す、無表情だからこそ残酷な「場」

小津安二郎という人が、なぜ俳優を無表情にするのか、なぜ俳優の内面を露出するような芝居を禁止するのか、俳優に対して「機械的に動け、無表情になれ」と要求するかと言うと───皆さんも小津の映画を観ると不思議に思いますよね?───表情を消すことによって「場」が立ち上がるからなんです。
ここでは、岩下志麻が置かれた「場」が立ち上がってきています。彼女の気持ちがどうかじゃなくて、彼女は今、どういう状況に置かれているか? それがいわゆる小津の「残酷さ」と呼ばれるもので、ここでは処刑宣告のような「場」が作られているんです。
状況がわからずにふらっとやってきて、死刑を宣告される。言う側も迷っている。ここで起こっていることは、「さらし者にしている」ということで、そしてそれは完全に意図してやっていることが、人物配置と照明を見ればわかります。
(中略)
小津監督は、こうして家族の集う居間を一種の法廷か何かのように設計して、その上で、岩下志麻に被告人のような動線を与えて、男たちからの宣告を受けさせているんです。「三浦くんがおまえのことをどう思ってるか、お父さん、兄さんから訊いてもらったんだよ、だけど駄目だったよ」って。こうして岩下志麻は心秘かに愛する男性との結婚を断たれ、代案として男たちから提示された、会ったこともない男性との結婚話を受けて、歩き去っていくんです。とある家庭の日常のドラマが、いわば法廷的な「視線劇」のなかで演じられているわけです。



『許されざる者』の繊細な視線の演出

あと、僕がこのシーンを好きなもうひとつの理由が、モーガン・フリーマンの演技です。
(中略)
その要となっているのが、「あのスペンサーライフルは今も使っているのか?」と(クリント・)イーストウッドに言われたモーガン・フリーマンが、ライフルのほうを一切振り向きもしないところです。一切振り向きもしないで、「今でも鳥の眼も撃ち抜けるぜ」と言う。
実際ああいうシチュエーションで、相手が自分の頭上を見て、「あのスペンサーライフルは……」って言ったら、ふつうはそのライフルをふっと見るなり、意識を向ける間を作ってから、「今でも鳥の眼を撃ち抜けるぜ」と言うと思うんですけど、一切それをやらない。一切やらないことが決定的なんです。やるかやらないかは雲泥の差です。
これによって、彼とスペンサーライフルの結びつきは、振り向きもしないほど強いことがわかります。日々あそこに置いていて、ときどき猟に使い、かつて人を殺して生きていたときも、スペンサーライフルの腕前だけで彼は生き延びてきた。そのことのすべてが、振り向きもしないことのなかに表われているんです。



仮面と素顔の葛藤が生み出す悲喜劇

世の中には『男はつらいよ』シリーズを馬鹿にする映画ファンもいるようですけれども、僕はけっこう好きなんです。寅さんって非常に複雑な人で、単なる天然の人ではないんですよ。
(中略)
僕が思うに、寅さんという人はそのテキ屋家業のなかで、自分が生きていくためのキャラクターというものを発明したんですね。
それ以来、寅さんは、自分の発明した「フーテンの寅」というキャラクターを演じ続けて生きているんです。日常生活が演技なんです。来る日も来る日も、自分が発明したキャラクターを演じていて、今では演じている仮面と、本当の自分の見分けが自分自身でもつかなくなって、素顔に仮面が張り付いているのが寅さんという人なんですね。逆に言うと、本音の寅の発言も、「フーテンの寅」の回路を介さないと発言できなくなっちゃっている。それが寅さんの悲しさなんです。だけど、「フーテンの寅」の回路さえ介すと、なんでも言えちゃうので、他人に対してはものすごい真っ当なことが言えちゃう。ですから寅さんの面白さというのは、そういう屈折した自意識の戦いのなかにあるんであって、単なる天然の人が巻き起こす、ズッコケ騒動ではないんです。



キャラクターとは何か? 『アーカディン氏』の寓話

僕が「キャラクター」というものを説明するときによく使う話をご紹介します。オーソン・ウェルズの『アーカディン氏』(1955年)に出てくる寓話で、有名なのでご存じの方もいると思いますけど、こういう話です。
とある湖にサソリがやってきます。サソリは湖を渡りたいんだけども、渡れません。すると、たまたまそこにカエルがいたので、「カエルさん、僕を向こう岸まで渡してくれないか」と頼みます。するとカエルは、「やだよ、サソリくん、君を背中に乗せたら刺されちゃうじゃないか、僕は死にたくないから乗せないよ」と答えるんだけど、サソリは、「いや、大丈夫だよ。僕が君を刺したら、僕も溺れて死んでしまうだろ? 誰がそんなバカなことするんだい?」と返して、それでカエルも納得して、サソリを背中に乗せて湖を渡り始めるんですが、湖の真ん中のあたりに来たとき、サソリはカエルを刺すんです。
カエルが溺れながら、「なんてことをするんだ。これで僕も君も死んでしまうじゃないか。どうしてなんだい?」と訊くと、サソリはこう答えるんです。「ごめん、これが僕のキャラクターなんだ」。

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