私が禿鍔饌犬箸い人を知ったのはごく最近のことで、中野翠・著「会いたかった人、曲者天国」という本がきっかけだった。



この本を手にとった理由は、第二次大戦前後に活躍した清水宏監督や、31歳の若さで夭折した女優・桑野通子に関する部分が読みたかったからなのだが、その他の人たちに関する話もとても面白く、読み終えてみればむしろそちらのほうが大収穫と言えるほどだった。

その中のお一人が禿鍔饌犬澄
写真を拝見すると、どちらかというと華奢な方だったように見受けられる。
が、生前に為した業績、行動、思想はどれも骨太で、大地にどっしりと根を張った揺るぎのない大木のような魂の持ち主であったと想像される。
本を一冊読んだだけの私がこんな分かった風なことを書くのはおこがましい。自重します。

中野翠が入門用として薦めているのは、
「日本への遺言 禿鍔饌幻賚拭廖



だが、こちらは旧仮名遣いでちょっと取っつきにくい。
入門用としては今回新しく出た本書(2015/02/05)が最適と思われる。

現代仮名遣いで、しかも学生向けの講義録ということもあり、持論ができる限りわかりやすく説明されている。
(ご子息の逸氏が書かれた解説文だけ旧仮名遣い。その中に『ライン』とか『スマートフォン』という言葉が出てくるのが何ともシュールな味わいがある)

禿鳥瓩亘殘家としても名高く、シェークスピアをはじめとして、エリオット、ヘミングウェイ、オスカー・ワイルドを手がけている。
なかなか敷居が高く、今まで敬遠していた「戯曲」も、禿鍔饌弧なら読んでみようという気にさせられる。
ご本人も数多くの戯曲を発表していらっしゃるので、それをひともくという楽しみも増えた。

これからしばらくは禿鍔饌源伊罎瞭々が続きそうだ。

言葉について

最初私は「言葉は道具である」「言葉は道具に過ぎない」というような言い方から話を始めました。戦後は国語教育を道具教科と名づけた時代もあった。言語は伝達の手段であるから、社会科とか理科とかの、有意義な学問をするための道具という意味で、この場合あくまで目的に対する手段の意味で使っています。軽蔑ではなくても、従属的な、二義的なものとして考えています。ところが、私は道具というものはもっと大事なもので、私流の言い方をすれば、道具とは心と心が出会う場所だと考えます。それは道具ばかりでなく物でも同じことです。しかし近代化の進行につれて、だんだんそうではなくなって来ました。昔は母親が自分の子どものために織物を織ってそれを縫ったのですから、その着物は単なる物質ではなく、子供と母親の愛情の出会いの場所であり、心と心の通路であります。着物は暑さ寒さを防ぐ道具であると共に、心の通路でもあったのです。言葉も全く同じことです。言葉は道具だというとき、それはまた心と心が出会う通路なのです。だから心をこめて使わねばならない。用を通じさえすればいいのだという考え方が、実は用を通じなくさせているのです。

「絶望について」より抜粋

人間はエゴイスティックなもので、本当は自分のことだけしか考えていないのだということを、一度痛切に見つめることが大切です。そうすると、人間というものは非常に悪いもののように思われますが、私はそのエゴイズムというものが、生きる力、生命のエネルギーだと思います。ベトナム戦争で弾に当っている人を想像しただけで、自分がその痛みを感じていたら、われわれは一日として生きられないでしょう。今原爆反対を叫んでいる進歩派の学者たちは、広島に原爆が落ちた時、これで戦争が終わり、自分達は生き延びられたと欣喜雀躍したことを忘れているのです。その時の自分の姿がよく分かっておれば、今日のような騒々しい平和運動は起りえないでしょう。人間の中に潜むエゴイズムをもう一度見直した方が良いのです。もし私たちが先に原爆を発明していたら遠慮会釈なくアメリカに落としたであろう。そういうことをもう一度考え直してみれば、日本人は世界で唯一の原水爆を浴びた国だといって、手足を失ったいざりが物乞いでもするように───物乞いと心得ているならいいのですが、誇りにするというようなやり方で───外国に対して世界唯一の平和愛好民族であるかのような偽善的な言動はなしえないはずです。人間の中に潜んでいる利己心をじっとみつめる目がないオプティミズムが、すべての偽善の源になると思うのです。

これは私がよくひく例で、オスカー・ワイルドの作品の中にある話ですが、ある若い夫人がウィンダミヤ夫人という貴婦人の催したパーティーで、声をはずませながら「私たちは理解し合ったので婚約しました」というと、ウィンダミヤ夫人が「あらとんでもない、理解というのは結婚の最大の障害よ」と言ったので、その若い夫人は唖然としてしまったというのです。オスカー・ワイルドは、そういうウィットの名人ですが、これはウィットにしても非常に真実をうがっていると思う。というのは、よく理解したというけれども、それは自分が理解したように相手を理解しているだけなのです。オスカー・ワイルドの言おうとしたことはどういうことかと言えば、お互いに理解したと言って相手を自分の理解力の中に閉じこめてしまうことの危険です。そのような理解のしかたをしているから、相手が自分の理解している以外の行動をするとそれを裏切りだと思うのです。それはただ自分が相手を十分理解していなかっただけなのですが、それを「理解、理解」といって、相手を自分の理解力の圏内に閉じこめてしまうことは実は、相手に対する非常な無礼であり、抑制なのです。だからオスカー・ワイルドの言ったことは、必ずしも単なる冗談や機知ではないのです。他人というものは理解し難いものである、みんなが自分のわかっていないものを持っているのだということを承知していなければいけないのです。そういう他人に近づくためにはやっぱり礼儀がいる。さらに言葉の上では敬語がいるのです。敬語といえば、それが使えないのがインテリの証拠だと思っている人間も多いし、若い男性では敬語を使うことは若さの沽券に関わると思っている人もあるようですが、敬語というのも、やはり未知なるものに接近するための一つの技術なのです。よく日本語を論ずる人たちは日本は敬語が多すぎるといって、それはタテ社会で上下の差別がきびしかったからだというけれども、そんなことはないのであって、それは親疎の関係も充分表わすのです。だからときには、身分の上の者が下の者に敬語を使うことがあります。それは相手を自分の理解力でもってすっかりわかったというふうになめきっていないということです。これが敬語というものなのです。

最後に補足的につけ加えておきます。さっきから、歴史や言葉の問題を話してまいりましたが、皆さん誰しも間違えていることがあります。それは、歴史“を"学ぶ、言葉“を"学ぶ、自然“を"学ぶという風に思っている。そういう考え方は間違っているので、われわれは歴史“に"学ぶのです。歴史がわれわれを教える。われわれは歴史から教わるのです。自然から教わるのです。言葉から教わるのです。それは、さっきの知識と経験ということとも関連してくるのですが、歴史を学ぶという場合には、知識として学ぶということになります。それは逆で、歴史が私たちに教えてくれるのです。歴史から学ぶのであって、歴史を学ぶのではありません。こうして歴史から学ぶ、言葉からも学ぶという態度が大切だと思います。

br_banner_kokuban


福田恆存(@Ftsuneari_bot)さん | Twitter