マキノ雅弘のインタビューが飛び抜けて面白い。
こういう人が作る映画ならさぞかし…と思わせてくれる。

岸松雄と今井正の対談で「若い頃は5,6本映画を見て回ったもんだった」と懐かしそうに話しているのに驚かされた。
凄いバイタリティ。

監督の人となりがわかってくると、おのずと「じゃあ映画を見てみようか」ということになってくる。
正直、今まで特にこれと言った理由もなく敬遠していた監督も何人かいたのだが、本書のおかげでそのハードルが取っ払われたことが最大の収穫だった。

五所平之助

(岸松雄)庭一つにしろ、セットだと、植木の葉も萎れて元気がないし……風だって、ほんものの風にはかないませんよ。

(五所)そうなんだ。こないだもね、ビルディングの中をロケで撮ったとき、役者がね、その事務所の窓をあける「しばい」があったんです。ところが、いざ本番となって、窓をあけたトタンに風が吹いてきてね、机の上に紙がバラバラと散らかったら、もうテストのときと違うでしょう。「しばい」が出来なくなって、やめちまったんです。風が吹いてきて紙が散らばったら散らばったで、それをひろうなり何なり、自然の動きが出来そうなもんじゃないですか。いわれた通りに、テスト通りにやる事しか考えてないからいけないんでね……あとでその役者に「何年役者している?」と訊いたら「十年になります」って言いましたがね、十年も役者していたら、もっと自然というものに順応した「しばい」が演れなけりゃ……。

稲垣浩

(稲垣)『無法松の一生』のときは、戦争中だったが、菊池寛(大映)社長がいうんだ。あの未亡人を戦争未亡人にしろって……その方が検閲の通りが楽だからというわけさ。しかし、それじゃこっちの狙いとちがうし、別に検閲に通すために映画をつくるわけじゃないから……で、ずいぶん、やっさもっさした。『手をつなぐ子等』のときに、終戦後だから、CIE(民間情報教育局)の(ジョージ・J・)ガーキーと折衝した。ガーキーは、あのシナリオが支那事変をバックにしているのがいけないというんだ。しかし書いた万作にいわすとどうしても支那事変でなければ困る、と頑張ってね。あれで二時間ぐらいやりあったかな、終局、ガーキーが「どうしてもやりたいか」と訊くから「どうしても、やりたい」というと、「じゃあ、やりなさい」といって許可してくれたんだが、あとになると、いろいろと心配してくれてね。ああいうところが向うの人の良いところだね。デスカッションのときはずいぶんやり合うが、あとではカラリッとして好意を示してくれる……。



伊藤大輔

(岸)最近見られた外国物では何が良かったですか。

(伊藤)そう、最近では……(チャールズ・)チャップリンの『殺人狂時代』(一九四七)、キャロル・リードの『第三の男』(一九四九)それから(ジョージ・スティーブンスの)『陽のあたる場所』(一九五一)ぐらいのものですが、『第三の男』ではリードに頭をボカンとやられましたね。映画的処理の点で。……だが、今から何年かあとになって、頭に残るのはといえば、僕はやはりチャップリンの『殺人狂時代』じゃないかと思うんです。そりゃ両方とも立派な映画なんですよ。だけどチャップリンには昔から僕は脱帽してきているんでね、特に。

(岸)『第三の男』で感心なすった点は、どこですか。

(伊藤)ツィターというんですか、あの楽器のつかい方がうまいという人があるけど、僕はそれほどびっくりしなかったです。また、あの出だしや筋の運びも、うまいことはうまいが、これもさのみ驚かなかったです。ただ、あのラスト・シーンには頭がさがった。あのシーンで、キャロル・リードが、キャメラのところに椅子をすえ、デンと構えていることがハッキリわかりますね。あれは単にうまいとか何とかいう問題じゃありませんよ。映画全体に対する把握の適確さです。僕たち凡庸なる監督の到底及ぶところに非ずと思いました。いささか見せつけられた感じはなきにしもあらずですが、しかしキャロル・リードは偉い。全体の重点をあのラスト・シーンにかけて、失敗していないんだから。



今井正

(岸)申しわけないんだが、私まだ『ひめゆりの塔』(一九五三)を見逃したままなんだ……。

(今井)ああ、あれは見ないでいいですよ。『ひめゆりの塔』の当ったのは、映画の定石からいって当る要素をそなえていたから当ったまででね……スターをならべた上に、内容が映画観客の平均年齢が見た戦争物だったり……それがまあ観客の要求しているものと合致したんだと思います。昔はね、自分が好きなものなら、たとえ日に五百人しか見てくれなくてもいいと思ったものだが、今は、とにかく大勢の人に見てもらって、自分のいいところをわかってもらいたい、そういう考えになってきました。



マキノ雅弘

(マキノ)しかし、なんやね、小國(英雄)もうまい脚本屋だけど、テクニシャンすぎる。それにあの男の欠点は、翻訳臭いことや。英語なら一遍スーッと読んで、それでわかるのでなけりゃあかんやろ。「アイ・ラブ・ユウ」は「私はお前を愛する」でなくて「好きよ」の方がようわかるし、「私の胸は、あなたゆえに、はり裂ける」は「苦しいのよ」でいいわけやろ。それも翻訳劇やったら、それでええかも知れん。けど、「私の胸は」と言わんかて、当人が言うとるのやから、わかっとるし、相手が前にいるのやったら「あなたゆえに」とか「あなたを」とか改めて断る必要はないやろ。つまり「好きよ」とか「苦しいのよ」とか、そういう単語の一つ一つが感情をあらわすものであればええので、それ以外にくどくどいうからあかんのや。それに俳優のエロキューションにもよるが、いやにセリフじみてくると、聞いとって、不愉快になる。その点、戦死した山(山上伊太郎のこと。かつて『浪人街』<一九二八〜二九>『首の座』<一九二九>『白夜の饗宴』<一九三三>等、マキノ正博と組んで数々の名作を書いたシナリオ作家だった)は、偉い奴やった。奴は客が見たいと思うものしか脚本に書きよらん……。

(マキノ)……大体、日本の脚本家は理屈をつけすぎる。……女は男のこういう点が好きやから惚れたが、しかしそれは将来不幸であろうとか何とか、そういうことは第三者の、作者の見方で、惚れた本人はそんなこと考えてしたわけやない。好きやから好き、惚れたから惚れたんや。理屈もクソもあらへん。恋は盲目ちゅうやないか。そやろ?

(岸)自分のこというと何ですがね、私は以前シナリオ書く時、必ず細かいハコをつくって、最後がどうなるかまで、すっかり決めてからでないと心配でたまらなかった。ところが最近は、極く大ざっぱな成り行きだけは決めておくが、あとは決めないで、書き出すことにしてるんです。こうする方が、人物の感情なり行為なりが、無理なく運べていいような気がするんですよ。その代り、ハッピーエンドにしたいと思ったものがそうならなかったりすることも、まま、ありますがね。

(マキノ)それでええのや。今のシナリオの多くは、筋だけは通っとるが、それを撮る監督の感情を支配するものは、ほとんどない。イタリーの『自転車泥棒』(ビットリオ・デ・シーカ監督、一九四八)など、あれ日本でやったら新派悲劇になってしまうわ。ありふれた材料を扱ってあれだけの傑作つくったのは、あの映画が感情的なカット・バックで支えられているからや。まあ日本の監督でああした作品つくるのは、黒澤明やろ。変なテクニシャンにならなければの話やけど……。



(マキノ)そこでわし思うのやけど、衣笠(貞之助)のオッサンや伊藤(大輔)さんが近頃あまりパッとせんのは、内容が落ちたからで、テクニックが落ちたんやない。わしかて、えらそうにいうわけやないけど、これでもまだ監督としてのテクニックは、落ちてないつもりや。監督として腕を発揮出来る内容(シナリオ)がないのや。山上のように無鉄砲にとり組んで行ける脚本屋が居らんのや。大体、器用や器用やといわれるのは、監督として危険なことや。無器用で、ヒタむきで、あればあるほど、うまい監督になる、と思っとる。



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