岸松雄の評論&インタビュー集。
顔ぶれが凄い。
ざっと挙げてみると…

内田吐夢
五所平之助
伊藤大輔
牛原虚彦
小津安二郎
稲垣浩
山上伊太郎
溝口健二
清水宏
成瀬巳喜男
マキノ雅弘
佐分利信
衣笠貞之助
今井正

作品・作家論で取りあげているのは…

清水宏
成瀬巳喜男
小津安二郎
山中貞雄

ここで特筆すべきは、消失した山中貞雄の作品14本(と現存している『河内山宗俊』)について言及がなされていることだろう。

幻の名作といわれている清水宏の『彼と彼女と少年達』『恋愛修学旅行』などの片鱗もうかがい知ることが出来る。
ファンとしてはうれしいやら切ないやらで、なかなか複雑な心境だ。
それはともかく、今となっては貴重な資料であることに異論はなかろう。

小津安二郎と五所平之助がエルンスト・ルビッチの信奉者であったことは知っていたが、まさか清水宏までが! というのが個人的には一番の驚き、というか喜びだった。

誠に勝手ながら、以下にいろいろ引用させていただいた。
人選が甚だしく偏っている点についてはご容赦願いたい。
当方、勉強不足で小津と清水以外ほとんど存じ上げないのです、トホホ…(汗)。
佐分利信の映画監督と俳優論

自分で監督するようになって、俳優について何か?

(佐分利)演らせられれば一通り自分でも演っては見ますがね、それは結局、見よう見真似なんですね。見よう見真似の演技ということは、生意気ないい方かも知れないけど、役者として要らないことをやっていることですよ。妙に「見得を切る」し、スター扱いをされればされるほど、役者流な、とらわれ方がひどくなる。ズボラの僕でさえ、今考えてみると、そんなとらわれ方をしていたことがあったんです。それがようやく最近監督をやったりして、批判的に物を見ることが出来るようになって、わかってきたんでね。極端に言うと、既成俳優には悪いが、清水宏さんと同じで、僕は、役者なんか要らないような気がするんです。自分で演ってみてわかったんですがね、今の常識で「しばい」をすると、役者としてしか動かない結果になる。つまり、生きた人間になり切れないんですね。

じゃ、あんたは清水流なんですか。

(佐分利)とにかく僕は、「しばい」が嫌いなんだ。ほんとに嫌いなんだ。演技論とかそんなむずかしい理屈からじゃなしに……。

昭和六年、清水宏は「映画評論」第十一巻第一号に、「私」という題で次のような感想を寄せている。

私はメンドクサがりやである。
この仕事が私に一番ぴったりしているらしい。何事もメンドクサガル私がとにかく不思議なほどの努力がはらえる。
だがこの仕事について私は私の進む道をまだしらない。
迷ってはいるが、迷っている間が楽しみのようだ。
いろいろと私の進む道について注意してくれる親切なお方もいるが私は当分迷っていたい。

清水宏はよく志賀直哉がああした立派な文章を書くに至ったのはこだわりに、こだわった結果であると私に語っているが、監督道においてもわれわれはもっともっとこだわらなければいけない。ここも要らない、かしこも要らない。要らない無駄を省いて行って、最後に残ったもの、その抜きさしならないものが芸術的な香気を保つのである。
その一方、外国映画を翫味(がんみ)して、学んだ。就中(なかんずく)エルンスト・ルビッチには教えられるところ多かった。ルビッチの『ウィンダミア夫人の扇』(一九二五)の如きは、何回となく、くりかえして見、カットの数までしらべあげた。そうして結局、映画において最も重要な問題は「間」にあることを会得した。


どんな事情があったか知らぬが、清水宏と田中絹代との結婚生活は永くは続かなかった。別れて数日後、二人は偶然同じ時刻に撮影所の門を出た。二人が飼っていた犬が、尾を振り振り、ついてきた、撮影所の前の小路を少し行くと、大通に出る。左に曲れば蒲田の駅だ。二人はここで右と左に別れた。哀れな犬は左すべきか右すべきか、しばらく迷っていたが、絹代の姿が駅の向うに消えてしまうと、ションボリ清水のあとを追った。
夕暮れのわびしさが部屋一杯に立ちこめている。見回せば、妙にガランとしてしまったものである。ついこの間まであったなまめいた鏡台もない。針箱もない。見慣れたものがなくなっているのは淋しい。と、縁側の硝子戸をたたくものがある。出てみると、犬だ。犬は清水の顔を見ると、うれしそうに頬をよせてきた。畜生でも、こんないじらしいことをする。以後、清水は生き物を飼う気に当分なれなかったということである。

(小津安二郎、助監督時代のエピソード)

ある日、小津は撮影所の食堂に昼めしを食いに行き、ライス・カレーを注文した。ちょうど時分どきなので食堂は満員。注文の品はなかなかに出来ない。小津がいらいらしているところへ牛原虚彦がはいってきて、これもライス・カレーを注文した。牛原は当時蒲田の大監督だった。ところが、ようやく注文のライス・カレーが出来て、ボーイが運んできたが、なんとしたことか小津のそばを通り抜けて、牛原のところへもって行った。腹はすききっているし、おまけに年齢は若い。小津は激怒した。ボーイをつかまえて「先に注文した俺にもってこないで、後からきた牛原さんにもって行くとはどういうわけだ」と、なじった。すると生意気なボーイが平然と、こころもち冷笑をさえ浮かべて「だって牛原先生は監督さんですもン」と答えた。瞬間、小津の鉄拳がボーイの横っ面に飛び、ボーイはその場にのけぞった。それを見て小津はもっていた台本を置き忘れたまま、食堂を飛び出した。よそでめしを食って小津が撮影所にもどると、この鉄拳さわぎは所内に知れわたっていた。そこへ所長室から呼びにきた。時の所長は城戸四郎だった。小津の顔を見るなり「君は食堂のボーイが何もしないのに殴ったそうじゃないか。いかんよ、そんな乱暴をしちゃあ」といった。殴られたボーイが置き忘れてきた台本を証拠に所長に直訴におよんだのである。自分の非をいっこうに認めない一方的な申し立てには腹が立つ。そこで事件の顛末を最初から逐一申し述べた。理由を聞けば小津が怒るのも無理ではない。城戸所長はすっかり機嫌を直して、雑談をはじめた。そのうち「脚本を書いてみないか」と所長がいった。書いた脚本が良ければ監督にして一本撮らしてくれることはわかっている。まさに好機到来である。「書かせてもらいます」と答えて小津は所長室を辞した。

昭和三十三年東宝で石原慎太郎に監督をさせると発表したとき、東宝の助監督がそろって反対した。助監督をしたこともないシロウトがいきなりきて監督するのが不愉快だったのである。この事件に対して小津は、映画の助監督が小説を書いても文芸家協会が怒らないのに、小説家が映画を撮ると怒るというのは偏見もはなはだしいといい、とにかく協力して映画をつくり、そのかわり、出来あがった作品は徹底的に批判するということにしたらどうかと勧めた。だが結局は石原は助監督部の協力を得られないままに、撮影所外の仕事として第一作を監督しなければならなかった。

(小津安二郎インタビュー。1933年頃と思われる)

一番好きな外国の監督者は?

(小津)エルンスト・ルビッチです。監督者としてのルビッチの偉さについては、例えば、こんなところにもわかります。即ち、僕なんかだと、人物が三、四人いて、そのうちの二人が靴の先きで床なら床を叩くところがあるとすると、直ぐその男の靴の先きで床を叩く大写をその間に挿入しなければ気が済まないのですが、ルビッチあたりになると、四人なら四人の人物を全部ロングのうちに収めて、その中で芝居をさせながら、しかもそのうちの一人が靴先で床を叩く姿が、ハッキリと僕達に感じられるような監督ぶりなのです。大写なんて、余程の場合でないと用いないのです。そんな大写など使わないで、使った以上の効果を出すのだから凄いものです。今年は怠けて外国の写真をあんまり見ませんでしたが、見たうちではいろいろ非難はされていてもルビッチの『私の殺した男』(一九三二)が、一番好きでした。


小津さんのような仕事をして行く人には、四本もつくるのは大変でしょう。

(小津)いや、やはり監督である以上、年に六作はつくりたいです。六本ぐらいつくらないのでは、勉強になりませんからね。

『出来ごころ』は小津のいわゆる喜八物のハシリである。喜八には坂本武、かあちゃんには飯田蝶子。青木富夫のガキがすばらしくうまかった。津村秀夫はこの映画を「黄昏芸術の特色をよく出した傑作」と推賞している。ところが小津はこの頃キング・ビダーの『南風』(一九三三)を見て、心から感動した。巨匠の名に恥じないビダーの演出に脱帽した。いまや小津にとってビダーはルビッチ以上に好きな監督となった。『出来ごころ』は小津の二十九本目の作品だが、三十本目からは『南風』のビダーの演出を見習ってもう三十本やりたい、と小津は決意を語った。そのせいかそれ以後の小津の作品には、アップが少なくなり、ロングのしばいが多くなってきた。『出来ごころ』は昭和八年のベスト・テンの第一位に推された。


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