統制社会の恐ろしさを描くにはいちばん不適任な監督ではないかと思う。
トリュフォーの創る絵は自由でカラフルで、どことなく"楽しさ"がにじみ出ているのだ。

もしスタンリー・キューブリックが手がけたら、それはもう恐ろしい管理社会を構築したのではないか。

で、結局ここに描かれている未来社会は、いったい何を禁止しているのかが、映画を見終わっても分からずじまいだった。

文字だけを禁止しているのなら、ダリの画集などはセーフのはずだが、これもダメらしい。

それでいて、主人公は文字のないマンガを読んでいる。
ということはある種の“思想"がダメなのだと思われるが、検閲が行なわれている風でもない。

どうやら人々はテレビ漬けになっているみたいなのだけれど、どんな番組を好む(厳密に言うと『好むように洗脳されている』)のかハッキリしない。

ではサイレント映画はどうなんだろう。

…と、本狩り"だけ"しても意味ないだろうに、という疑問は解決されぬまま、モンモンとした時間は続くのだった。

割とおしゃれな町並みを若者が歩いていると、長髪であるというだけで捕まり、いきなりバリカンでトラ刈りにされてしまう。

ここだけ見ると戦時中の日本よりも厳しいようだが、女性たちはファッションショーから抜け出たかのようなオシャレを楽しんでいる。

どうにも統制感がなく、いつまでたってもどういうルールの下に動いている社会なのか見えてこない。

“ファイヤーマン"たちは、市民からの密告があると、いきなり家宅侵入して本を探し出すわけだが、所有していた場合の量刑が分からない。

さらにこの統制社会は、この国だけのことなのか、世界全体がそうなっているのかも分からない。

これらの疑問は、原作を読めばすべて腑に落ちるのだろうか。

だとしても、私はどうも根本的に受け付けない。

というのは、管理社会に対抗するアイデアとして“本の人々"という反政府グループが、一人一冊を暗記して本を守っていくというのだけれど…。

私にはそちらのほうに怖さを感じる。
人間の脳にそこまで信頼を寄せて良いものだろうか。

一度覚えたら絶対に忘れないと言えるだろうか。
無意識的に内容を改変しないだろうか。
あるいは意識的に改ざんする輩がいないと言えるだろうか。

記憶が改変されたり、忘却されたとき、それを認めなかったり、隠す人だっているのではないだろうか。

一冊の運命をたった一人の記憶に託すというアイデアが、私にはどうもいただけない。

それよりは何千、何万部とコピーを取り、世界中にばらまいたほうがなんぼ安全なことか。

“本の人々"の責任者らしき人が、
「人の頭の中はいちばん安全だ」
というが、とんでもない。
いちばん危険だと私は思う。

さらに“本の人々"の説明によると、
「私たちは法律を犯していないから捕まらないの」
(だからこのやり方を選んだ)

ということだが…いやいやちょっと待ってほしい。
主人公は、そこに来る直前、元同僚のファイヤーマンを殺しているではないか。
それはお咎めなしでいいの?

と、どうにも色々なところでつまずいてしまう映画だった。

“密告箱"のようなポストが、はたから丸見えのところに設置されていたり、秘密図書館の蔵書の整理がごちゃごちゃで、本へのリスペクトがかけらも感じられなかったり、いろいろとアマアマなところも気になった。

もちろん良いところもある。

主人公が夜中こっそりと、
チャールズ・ディケンズの「デビッド・コパフィールド」を朗読するシーン。
ここは読書という行為の愉悦が存分にあふれていた。

やはり本は素晴らしい。じっくり味わうスローリーディングも捨てたものではない、とつくづく感じ入った。

それからもう一つ。
この世界には、視聴者参加型のドラマというのがあって、主人公の妻がそれに出演することになるというエピソード。

テレビの中で会話している役者がいきなりカメラのほうを向いて、
「どう思う? リンダ」
とやるのだ。

リンダは上気した顔で何か答えようとするが、緊張のためうまく言葉が出てこない。
だが、一定時間が過ぎると、リンダにかまわずドラマは再開される。

つまりリンダがどう答えようが大勢ないように始めから作られているわけだ。

そもそもリンダへの問いかけ自体、答えが一つしかないようなものが用意されている。

それでも当のリンダはご満悦で興奮しまくっている。
そんな妻にあきれ顔の主人公なのだが…。

それで昨日読んだマンガのことを思い出した。
グレゴリ青山の
「もっさい中学生」
という爆笑マンガなんだけれど。

ある国語教師が、
「かつての教え子ジュリー(沢田研二)の初恋の相手は私よ」
と、常々公言していて、
それを誰かがテレビ局に投書したらしい。

それが取り上げられ、何とその先生は当時の大人気番組『ザ・ベストテン』に、電話出演をすることになったのだ。

生放送でジュリーはちょっと涙声になりながら、かつての恩師と話した。

そしたら…

翌日学校は、パニックに近いほどの異様な活気で

あったという…。
このもっさいフィーリング、きっとお分かりいただけることと思う。
(『もっさい』の使い方がたぶん間違っていることも)

だからリンダの興奮っぷりを「なにをミーハーな」などと、私はバカにできないのだ。



そういうわけで、
「本狩りする社会」という初期設定も、
「一人一冊丸ごと記憶」という解決方法も、
どちらも片手落ちに思えたのだった。

…今、ATOKが「片手落ち」を一発変換しなかった。

試しにググってみたら、放送禁止用語扱いになっているようだ。

「2015年の日本が、ワシの想像力の遙か上を行く奇っ怪な言葉狩り社会を形成しているとは、もっさいのう…」
とレイ・ブラッドベリ先生、天国で苦笑されているかも知れない。

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Fahrenheit 451 (KINENOTEより一部転載)

監督
フランソワ・トリュフォー

脚本
ジャン・ルイ・リシャール
フランソワ・トリュフォー

原作
レイ・ブラッドベリ

製作
ルイス・M・アレン

撮影
ニコラス・ローグ

音楽
ベルナール・エルマン

キャスト
オスカー・ベルナー Montag
ジュリー・クリスティ Linda and Clarisse
シリル・キューサック Captain
アントン・ディフリング Fabian
ジェレミー・スペンサー Man in Flat/Book Man
アレックス・スコット Henri Brulard