松本清張の朝日新聞社時代は自伝「半生の記」で知ることができる。
が、同僚から見た清張像が描かれている
「朝日新聞社時代の松本清張 - 学歴の壁を破った根性の人」
(1977年発行)もまた興味深い。

当時の朝日新聞社は身分制度があり、社員と雇員では扱いが露骨に違っていた。
松本清張と、本書の著者である吉田満は初めのうちは雇員(今でいう下請けか契約社員のような感じか)であったため、事あるごとに屈辱感を味わわされていたようだ。

エリート社員がからかいの意味で置いていったミカンを「畜生め!」と叫びながら床に叩きつけたり、その社員と取っ組み合いのケンカをしたりなどのエピソードは「半生の記」には記されていなかったように思う。

当時からこんなにも気概あふれる方だったということが、本書を読んで初めて知ることができた。

…ここから先は引用であるが、松本清張が「田村君」と呼んでいるのは、本書の著者・吉田満氏のことである。
当時、氏は田村姓であったことを申し添えておく。

(以下、引用)

「だがな、田村君、君はまだ若いからいいよ。僕はもう四十代だからな」
実感の籠ったしみじみした声で、松本さんは遣り切れないような言い方をした。本流から外れたよそ者的存在であってみれば、年を重ねても這い上れない焦りも深刻であるように思われた。
細い土手の途の前を歩く松本さんが、このとき立ち止まった。そして、急に股を開いて池に向かって何かを投げた。「うう」とも「えい」ともとれる声を出した。ずんぐりタイプの姿態が傾いて、如何にも不格好で不器用な投げ方だったが、額から冷たい汗が流れているように見えた。彼はせい一杯の力を出していたのだろう。
投げる格好だけをしたのかと初めは思ったほど、投げられた物は遠くには飛ばずに、手前の水面に小さな音がして、波紋だけは大きく広がっていった。
(ふう)と息を吐き出して彼は言った。
「社員バッヂを捨てたよ」(p194)

(吉田氏の書いた短篇が雑誌に掲載され、稿料が送られてきたときの話)
たかが二十枚たらずの短篇にしては、分に過ぎた高額に思えた。領収書に署名して松本さんに渡すと、私は言った。
「松本さん、こんなに貰っていいでしょうか」
「遠慮することはない。苦労して書いた原稿じゃないか」
「会社が退けたら魚町に出ましょう。でっかいビフテキをボンドンで食べましょう」
「いや、飲み食いはいかん。麻雀なんぞに使うんじゃないぞ。今日は真っ直ぐ家に帰って神棚に上げときたまえ」(p204)

(デビュー作となる『西郷札』を執筆していた頃のエピソード)
その後も、何度も書き直し推敲も重ねているようであった。
或る朝、出勤してみると、すでに松本さんは大ぶん前から出てきたらしく、一仕事終った後のように、椅子の背にぐったり体を凭せかけて、荒い息をしていた。
「お早うございます。朝早くからどうしたんですか」
私の話しかけに気付くと、
「田村君、田村君」
と放心したように同じことを口ずさんだ。眼に焦点がなかった。額に脂汗が浮いていた。日ごろの彼を知らない人が見たら、気でも狂ったのかと思うにちがいなかった。
「田村君、いま投函してきたよ」
右手に持っていた汚れたタオルで額の汗を拭いて、大きな息をした。
「おれには、あれ以上は書けぬ。初めて書いた小説だ。選考者が選んでくれればそれでいいんだ」(p219)

(『西郷札』が三等に入選した頃の松本清張の様子を、吉田氏が自身の日記に記している)
○月○日
今日の松本氏との散歩では、中央にいないので発表機関がないのが残念だと、思い詰めたように言う。西郷札のような作品がまだ沢山書けるのですかと訊ねたら、想像は雲霞の如く湧いてきて、あれもこれもと書きたいことが頭の中に一杯だと言う。例えば、明治にしても史実を調べていると、小説となる題材が豊富で、今までの作家たちが気付かずにいるのが不思議にさえ思われる、と言う。話の途中で、ふと松本氏は足を緩めて後を見るので、私も振り返ったら、見窄(みすぼ)らしいおやぢさんが道の端に小さな台を置いて、その上に小瓶を列べ、頻りに子供集めにしゃぼん玉を空中に散らしていた。極彩色の小さな玉が、口にくわえた棒から無数に出てくると、風に吹かれて青空に吸い込まれるように消えていった。あれも小説になるよ、と松本氏は言った。(p223)

「松本さん、どうしたら小説が書けるんでしょうか」
この質問は愚問であったかもしれないが、私にとっては、決定的で思い詰めたものであった。
「モームがね、若い作家志望者を集めて言ったそうだよ。読書すること、旅行すること、骨身惜しまず書くこと。とね」
モームの原書で英語を勉強していることから得た知識であろうと思った。
「だがね。モームは『ああ、もう少しで忘れるところだった。作家になるには才能がなければならぬ』と付けたしたそうだ」
「ということは、才能なんか後廻しで、三つのことに励めということですね」
「それは咀嚼不足だ。彼は強調するために、わざとそういう言い方をしたんだよ」
松本さんはじっと私の顔を見た。(どうだね。君、自信があるかね)とでも言っている眼であった。(p228)

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