またお一人、"本当の戦争"を知っている方が旅立たれてしまった。

須崎勝彌氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます

(以下、引用)

米軍が硫黄島に上陸したという情報が伝えられたその翌日、指揮所前に整列した艦攻隊の十四期予備学生は指導官野中(繁男)中尉から告げられた。
「明日から飛行作業を再開するが、全員ではない。一部の者に限る」十六名が指名された。その中に村瀬がいた。私は呼ばれなかった。使用するのはアルコール燃料ではない。オクタン価八七のほんものだ。実戦には九四を使うそうだが、訓練には八七でオンの字だ。一部の者に絞って訓練を集中し、練度の向上をはかるというが、選ばれた十六人は実戦配置に就いたも同じだ。実戦とは即特攻である。 (p38)

左褄(※)を取る彼女たちを海軍ではエスと呼ぶ。日本海軍が明治の初めに産声をあげた頃、英国海軍の士官たちが芸妓を Singer と訳したので、その頭文字をとったという他愛のない話だが、使用された頻度からすると、エスは隠語の中でも最上位にランクされるかもしれない。 (p41)

(※ 左褄 〔左手で着物の褄を持って歩くことから〕芸者の異名)

突入を意味する長符は、ときに長くときに短い。十数秒続けば突入に成功したにちがいない。五秒以下では撃墜されただろう。
いずれにしてもツーと尾を曳く長符がプツンと切れたその瞬間、機上の若者たちの命は消えたのだ。その鮮烈な臨場感におののきつつ聞くものはみな挙手した。 (p45)

私はあえて村瀬(稔)の死を美化する。しかしあの夜の十数秒の訣別の沈黙を決して忘れない。 (p49)

敗戦から平和条約が結ばれるまでの間は、戦死者を公然と悼むことはできなかった。占領軍によって、固く禁圧されていたからである。昭和二十七年のサンフランシスコ平和条約の成立を待って動き始めたのではとても昭和三十一年の(慰霊碑の)建立に間に合わない。終戦直後から秘かに準備が進められたのだろう。事が洩れると処罰される。碑に刻むべき七十五人の名を調べることからして容易ではなかったと思う。そのご苦労を偲んでいたときふと言葉が浮かんだ。
「子らに続いて母たちも、鎮魂という形で特攻に参加した」 (p52)

僕達は重い勲章を一杯胸につけた死刑囚でしかなかった。 (p55)

海軍の搭乗員は、軍刀を機内に持ち込まない。コンパスが狂うからだ。しかし出撃直前までは武士の魂として携えた。
征く者は残る者に軍刀を托す。托された者も数日後には出て行く。托され托されて、福井(隆三郎)は軍刀を束にして持ちかえった。それが十数個の遺骨に思われたという。 (p61)

「貴様たちが、特攻隊員としてここまで出てきたからには、生きては帰さんから、そのつもりでおれ」 (p75)

「一人帰ル身ノ辛サ、何トモ言エズ、恥カシクテナリマセンデシタ。会ウ人ゴトニ声ヲカケラレルノガ身ヲ切ラレルヨウ、マシテ一番機ノコトユエ一層デアリマス。(中略)親友タリシ村瀬(稔)、富士原(恒城)、堀之内(久俊)少尉モ遂二死二、自分一人マタ生キ永ラエ、今マタペンヲトッテオリマス。私ノ心中、何トモ表現スルヲ得マセン。明日ハ田平(光弘)ガ出ル。残ルハ小生ノミ」 (大石政則日記より) (p77)

沖縄に米軍が上陸を開始した。昭和二十年の東九州の桜はそのために咲いたかのように、神風特別攻撃隊宇佐八幡護皇隊の出撃搭乗員の箙(※)を飾った。 (p96)

(※ えびら【箙】矢を入れて右腰につける武具)

なぜか咄嗟の違和感が走った。爆弾から弾道を安定させる翼がすべて取り外されていたからだ。体当たりには必要ない。理に適っている。非情の合理を納得したが、この醜い鉄塊に慄然とした。しかし命を砕く仲間たちを思い、一瞬の恐怖を消した。そして爆弾に白いペンキで、〈必中〉の文字を描いた。戦場まで三時間、命ある生身は喉も乾こう、腹も空こう。飲物や食べ物を座席に置いた。風房をピカピカに磨いた。 (p104)

特攻で戦死した士官の実に85パーセントを予備士官が占めるという数字を楯に取るまでもない。羽布張りの複葉機や練習機の特攻には、兵学校出の士官はまったくと言っていいほど名を連ねていない。 (p114)

海軍中尉野中繁男は、兵学校七十二期のエリート士官である。昭和十九年の九月末に、中練教程を終えて宇佐へやって来た十四期予備学艦攻隊の指導官として、開口一番われわれに言った彼の言葉は忘れられない。
「この辺り一帯は田んぽだった。むかしから宇佐神宮に神撰米を供えてきた美田をぶっ潰して飛行場にしたんだ。勿体ねえ話だよな」 (p117)

勝算がなくても戦い続けなければならない。これが戦争の実態だ。 (p125)

「起きている者だけ聞いてくれ。俺たちが特攻をかけることで一時は敵を阻むだろうが、やがて敵の本土上陸は必至である。そして文字通り一億は玉砕するだろう。それでも俺は日本の勝利ということを言いたい。それはだな、生き残った僅か数十人の日本人が地球のどこか興安嶺の山奥あたりに棲みついて、それから数千年の後、一つの国家を形成するまでに人口がふえるだろう。それをもって日本の勝利と言いたい。では征ってくる」
ふたたび足音を秘めて、藤井(真治)大尉の姿はデッキから消えた。数人の者が釣床の中で半身を起こし、去って行く藤井大尉を見送った。 (p130)

腰に日の丸を帯にして巻き、大刀をひっさげて立つ山下(博)大尉は、威風あたりを払う感があった。見送る隊員たちは、彼が敵艦に突入する直前の物凄い必殺の形相を思い描いた。いままではただ恐ろしい上官とだけ思っていたのに、やはりこういう人でないと敵をやっつけることはできないのだと、初めて畏敬の念を抱いた。(p137)

茶室はお寺の境内にあった。森丘(哲四郎)は記す。
「小林治子さん、元山高女二年生、お茶のお友だち、私のお点前を見てよく笑った。
私が飛行作業に自信を失った頃だった。すべてが行きづまった感じで頭が重く、苦しみとともにお茶の席に参列した。その席に二人の女学生がいた。その一人が小林治子さんだった。
私はそのとき先生に、『救われました』と言った。『いまこの茶室で助けられたのです』と言って、お点前をして帰った。女学生には何も話さないで別れ、隊に帰った。あの日(一月初旬)の治子ちゃんの目、顔、忘れもしない。月曜日の飛行作業はドンピシャリ。完全に自信を得た喜び、はるばる挙手の礼をなし、野田(克人)、山藤(寿)君に語ったものだった。次の日もそのことを想いて着陸の目安としてやった。完全見事に着陸できた。彼女によって私は搭乗員の苦悶を突破したのである」 (p146)

かつてのこの国の若者たちは、勝つためよりも、戦争を終わらせるために命を断ったのだという結論を得るのに、それほどの時間は必要ではなかった。 (p183)

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