目の前に差し出された21億円に背を向けることのできる男が、この世界に何人いるだろう。

もったいない。でもかっこいい。
うれしい。でも理解に苦しむ。
思わず、以前に買った本を取り出してみる。
少しは理解できたかも。
しかし、じゃあできるか?と言われたら、全然ムリっす。

※本書の発行年は2012年4月21日であることをご了承の上でお読みください。

(以下、引用)

いまも高校時代の監督からよく言われることがある。
「補欠だったお前が、メジャーリーグで投げてるんだなあ」
感慨深いというわけではないと思う。まさか、あの黒田がメジャーリーガーに、という驚きの方がいまも大きいのだと思う。
そうなのである。僕は出身である大阪のU高校で、背番号「1」をつけたことがない。いうなれば補欠だった。それはなにも監督から過小評価されていたとか、そうしたことではなく、自分の実力が足りないが故の補欠だ。
しかし補欠からの出発であっても、考え方を変え、チャンスを活かすことができれば、自分の想像を超えた舞台でプレーすることができることを自分の人生から学んだ。それは、いま僕がヤンキースのユニフォームを身にまとっていることからも、分かっていただけるのではないかと思う。 (p14)

思えば僕の野球人生はどこかで走らされてばかりいる。
いまでも覚えている言葉がある。当時僕のいた専修大学にはとにかく走らせることで有名なコーチがいた。ある雨の日、みんなは室内練習場で練習しているのに、僕だけ外を走るよう命じられたことがあった。僕はずぶ濡れになって走っていたのだが、そのときこう言われたのだ。
「黒田、骨までは濡れないから大丈夫だ」 (p28)

(専修大学)3年生の終わりごろから、そんな伊勢原のグラウンドにひとりの男性が来るようになっていた。最初はその方が誰か、まったく見当もつかなかったが、よくよく聞くと、カープのスカウトの方だった。
僕がカープを好きになった理由のひとつに、このことがある。広島からわざわざ、しかも足しげく通ってくれる。来てもらうだけでありがたいそんな場所に、だ。しかも日本にはプロ・アマ協定というものがあって、プロのスカウトの人がアマチュアである大学生に話し掛けることは禁じられている。だから、僕と話をするわけでもなく、スカウトの人は僕の練習をじっと見ているだけだ。
ずっと一途に来てもらっているうちに、恩返しをしたい、という思いになっていった。
このスカウトの方こそ、いまカープのスカウト部長をされている苑田聡彦さんだった。
大学4年生になり、1部リーグでプレーし、ストレートの表示が150キロを超えた後くらいから、グラウンドにやってくるカープ以外のスカウトの人たちも増えた。しかし、決して話し掛けるわけでもなく、遠くからじっと自分の投球を見ているカープのスカウトの方の姿が頭から離れなくなっていた。しかも、話さないだけでなく、苑田さんは自己紹介さえしなかったのだ。
いまだから、言える。
カープとは、そういう球団なのだ。足を運び、姿勢を理解してもらう。カープ的なアプローチというものがあるとすれば、この苑田さんのやり方こそがそれだった。僕はその姿勢に、心を打たれた。 (p38)

ただ、すごかったと思うのは、安仁屋さんだ。あの試合以降も初回にいくら大量点を取られても、僕を絶対に代えなかった。
どんな状況になっても、「お前を使う、育てていくんだ」という気持ちが、僕には嫌でも伝わって来た。そうした安仁屋監督、カープの育成に対する姿勢がなかったら、僕はとっくに野球をやめていたと思う。もし、初回の途中で交代させられていたら、気持ちが後ろ向きになっていたかもしれない。マウンドで投げ続けたことで、僕はなんとかプロとして一人前になっていくことができた。 (p47)

いまでも夏合宿と聞くと、忘れられないことがある。高校1年生のときのことだ。練習試合で打ち込まれた僕は、ベンチに戻ると監督から、
「もうそのままユニフォームを脱いで、走っておけ」
と命じられた。その通り、僕は外野に行って走り始めた。その日は、そのまま走り続けて練習を終えた。
そして翌朝も6時くらいから走り始めて、夜の21時……いや22時ちかくまで走り続けた。いまはもうこんな練習はないだろう。しかし、昔の高校野球はこうした練習は特別珍しいことではなかった。当然、チームメイトが昼ごはんを食べている間も走っていた。それでは体が持たないので、飲み物や食べ物は、同級生や友達が隠れて持って来てくれて、それでようやく食べられるという状態だった。
3日目、4日目も僕は朝から晩まで走り続けた。そんなおかしなことはないだろう、と読者の方は思われるかもしれない。しかし、U高校野球部では一度監督に「走っとけ」と言われたら、「もういいぞ」と言われるまで走るのをやめてはいけなかったのだ。
ある日のこと、一緒に走らされていた先輩の父兄の方が、ずっと走らされている僕たちのことを見るに見かねて、夜中になってからこっそりと、合宿所から先輩の自宅に連れて帰ってくれた。なぜなら、走らされている4日間、お風呂にも入れないし、まともな食事もできない状態だったからだ。先輩の父兄の方は気を利かせてくれて、お風呂を沸かし、食事をさせてくれた。また、朝になってから気づかれないように合宿所に戻ればいいじゃないか、と。
その好意は本当にありがたかった。
気を利かせてくれた先輩の親御さんは、僕の実家にも電話を入れてくれた。
「お宅のお子さん、一緒に連れて帰って来て、お風呂も入れさせました。ちゃんと寝かせて、明日からまた合宿に行かせますので、御心配なさらないでください」
これがいけなかった。ウチの母親はその電話をもらって、こう言い放った。
「すみませんけど、ウチの子だけでいいですから、お金は出しますので、タクシーでもなんでも使って、また学校に戻らせて走らせてください」 (p71)

2011年のシーズン途中にドジャースからのトレード話が出たとき、僕は迷いに迷ったが、最終的にドジャースに残留を決めた。メジャー流でいえば、この時期のトレードを受けないという選択はあり得ないものだ。このときのドジャースもそうだったが、優勝の可能性が低くなったチームが、優勝争いを演じているチームにトレードを出すケースがほとんどで、トレード候補に上がるのはいわば名誉なことだからだ。でも僕は残留を決めた。
それは、
「今年はこのチームメイトと一緒に野球をやりきる」
という初心、いわば信念を思い出したからだ。
この決断にいたったのも、ひょっとしたら母親の教えが自分の気持ちの奥底に影響を与えているからかもしれない、そう感じたりもする。 (p75)

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